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西鉄黄金期の土台作る…春日原野球場

◆新人・豊田が「青バット」大下に感激


56年の日本シリーズで最優秀選手に選ばれた豊田

春日原野球場跡地近くの住宅地に立つ石碑

 東京から2等列車に揺られ、関門海峡を渡った17歳の少年を待っていたのは「異国」とも感じた九州。言葉も郷里の茨城と全く違った。

 1953年(昭和28年)1月、春日原野球場(福岡県春日市)でプロ野球・西鉄ライオンズの若手合同練習が始まった。真新しいユニホームに身を包んだ新人、豊田泰光(74)もその一人。「プロにはなったが、やっていけるのか」。早速命じられたランニングでは強い緊張感から、グラウンドの片隅で吐いた。

 気がつくと、主力打者の大下弘(故人)が、真っ赤な顔をして走っていた。その大下が、「仲良くやろうね」と差し出してきた右手にすがるように、握り返したまま離そうとしなかった。少年時代にあこがれた「青バットの長距離砲」はけげんそうな表情を見せたが、こまやかな気遣いが豊田の心に染みた。

 50年に始まった朝鮮戦争。大陸に近い福岡では、米軍が暮らしの風景の中にあった。米兵から親善試合を申し込まれた豊田は、同僚にひそかに声をかけて対戦に応じ、勝てばステーキをごちそうになり、野球用具ももらった。「こんな国と戦争をすれば負ける」と改めて実感した。

 「春日原」は、マツタケが自生するような原野だった。そこを切り開いて建設された球場がオープンしたのは24年(大正13年)。バックネットと本塁の間が広く、守備は気を使わねばならなかった。「暴投や捕逸はえらい目にあった。ボールが転々とする間に一塁にいた走者が三塁に進んでしまう」。豊田はそう言って、苦笑いした。

 試合や練習のない日は、外野を囲む塀のすき間から入り込んだ子どもたちの遊び場になった。幼い頃、キャッチボールをして遊んだ郷土史家の赤司岩雄(81)は、「野球以外にもラグビーなどイベントが行われると、臨時電車も運行され、にぎわっていたものです」と振り返る。

 西鉄の公式戦も年に数試合行われたが、主に鍛錬の場だった。「怪童」の異名を取った中西太(76)は、「三原(脩)監督の練習は厳しかった。尻が割れるぐらいにやらされた」と思い出を語った。

 西鉄は56年から日本シリーズで3連覇。黄金期の土台を作った球場も、宅地開発のために解体された。今、付近を歩いても面影はない。唯一、「春日原停留所運動場道」と記された石碑が立ち、選手やファンが心を躍らせてスタジアムに向かった当時の情景を想像した。

春日原野球場
 西日本鉄道の前身、九州鉄道が1924年に営業運転を始めた福岡―久留米間の沿線開発の一環として整備したもので、同年に完成。西鉄ライオンズの前身、クリッパーズ時代から公式戦が53年まで行われた。
2009年11月19日  読売新聞)

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