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仰木マジック 縁深く…北九州市民球場

◆選手時代「第1号」


勝負師らしい采配(さいはい)をみせたオリックス監督時代の仰木(2005年9月23日撮影)

 「仰木マジック永遠に」――。2006年6月28日、ソフトバンク―オリックス戦が行われた北九州市民球場に、前年12月に70歳で亡くなった元オリックス監督、仰木彬をしのぶ横断幕が掲げられた。自宅はここから徒歩5分。福岡県中間市出身で、東筑高(北九州市八幡西区)から西鉄ライオンズ入りした仰木は、半世紀前の完成当初から、この球場に縁があった。

 小倉球場の名前でお披露目された1958年(昭和33年)4月5日、西鉄―阪急の開幕戦。土がむき出しのスタンドに2万5000人が詰めかけた。その2日後、新球場の第1号本塁打を放ったのが当時22歳の二塁手、仰木だ。阪急のエース梶本から七回に放った一撃が、記念の2ランとなった。

 プロ14年間で70本塁打と決して長距離打者ではなかったが、当時の一塁手、河野昭修(79)はよく覚えている。

 「仰木はスポンサーから懸賞がついた時などによく打った。狙っていたのかもしれない。この時も地元だから張り切っていたんでしょうね」

 西鉄は黄金時代の真っただ中で、この年に日本シリーズ3連覇を果たす。知将・三原脩監督の厳しい指導は小倉でも同じだった。小学校から高校まで仰木と一緒だった親友の高田敏夫(74)は「三原監督から激しいノックを受けていたが、試合前にこんなにやって大丈夫なのかと思うほどだった」と懐かしむ。

 指導者になってからも遠征でたびたび小倉へ帰り、試合後は旧友らと飲みに出た。オリックス監督時代には、こんなエピソードが残っている。

 01年6月27日のダイエー戦の三回、審判の判定に「明らかなミス。承服できない」と珍しく声を荒らげ、選手をベンチに引き揚げさせた。20分間にも及んだ抗議の後、遅延行為として退場処分を受けると、ユニホーム姿のままタクシーに乗り込んだ。この後、私服に着替えて向かった先は、行きつけのスナックだった。

 店では偶然、高田が飲んでいた。取引先との酒席を終えたら観戦に行く予定だったため、驚いて「もう終わったの?」と尋ねたが、仰木は「いやあ」と口ごもるだけ。チームの勝利を知ると、球場の報道陣に電話で「選手に闘争心が出てきてうれしい。よう頑張った」と談話を伝え、コーチ陣を焼き肉店へ連れて行ってねぎらった。

 巧みな選手起用で知られた名将。これも、選手を発奮させるマジックだったのかもしれない。(敬称略)

北九州市民球場
 1958年、小倉球場として開場。西鉄の公式戦が、多い年で30試合以上行われた。89年のダイエー誕生に伴い、北九州市が大規模に改修して名称を変更。所在地は同市小倉北区三萩野。
2010年2月5日  読売新聞)

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