昭和30年代を木町の県営APで育ちました。まだ幼稚園から小学校の頃ですから、やはり、あの給水塔のてっぺんは少し勾配があって、満々とたたえた水面を覗き込むのは勇気がいりました。
パン屋さんの工場で売っていたラスクを買うのも楽しみでしたね。30年代はまだ引込み線に貨物列車が走っていたような気がするのですが、ちょうど団地の北側のあたりに造兵廠入り口の大きな鉄の扉がありました。
線路に耳を当てて列車の過ぎていく音をずっと聞いていた気がするのは、私の記憶違いでしょうか……。(パパタローさん)
私は小学校の3年生から中学校の2年生までの6年間、昭和30年代に木町の県営アパートに住んでいました。写真の左下隅に4つの出っ張りの見えるビルが住んでいた9号棟です。
4階建で、エレベータもなく、32世帯が入居していたと思います。この写真に写っているなんてまるで奇跡です。アパートの裏側には2〜3メートルの坂があり、その向こうには若干広い道と造兵廠へ入る引っ込み線の線路がありました。引っ込み線には1日に1、2回貨物列車が走っており、家の裏窓からよく見ていました。
9号棟と8号棟の間にはちょっとした広場がありアパートの友達とよく野球をしました。柔らかいボールで、大当たりをしても窓ガラスを割るようなことは無かったのですが、ベランダに入り、よくボールを貰いに行った記憶があります。
広場の片隅にはコンクリートのポンプ場があり、1人の時にはその壁にボールをぶつけてピッチング練習をしていました。丁度、西鉄ライオンズが3連覇した後で、小学生は誰もが西鉄ファンで、稲尾や中西、豊田にあこがれた時代です。(せいちゃんさん)

あまりにも懐かしい写真です。この写真の中のどこかに、小学1年生の自分がいます。私の家は造兵廠跡地のすぐ西、田町にあり、我が家の前の小公園から、写真にも写っている3本の煙突が見えていました。拡大鏡で見ると、出来たばかりの西小倉小学校新校舎がよく見えます。(写真の左の方には西小倉小学校旧校舎も…) 私は新校舎に1年生で入学した一期生でした。モータリゼーション幕開けの頃で、学校西門の前に歩道橋ができ、そこを必ず渡って登校するよう厳しく指導されました。お陰で今でも、帰郷時には身体が反応します。写真にも写っています。新校舎の向こうには小倉保健所。小学校の右隣にはこれまたできたての小倉警察署の建物が……。
そこから南に向かって広がる広大な小倉造兵廠跡地は、小さな子どもにとっては巨大な宇宙のようでした。古びた塀の隙間や広がった鉄条網の間から、みんなで潜り込んではよく野球をしました。いくら遠くへ飛んでも割れる窓ガラスなどない広大無辺の野原でした。一面のぺんぺん草の中、見上げたボールを探しに行ったら、そのままバッタ捕りに変更、なんてことも。
造兵廠の南の方に円柱形の給水塔が写っています。この塔は子どもたちの間では「幽霊塔」と呼ばれ、ここにクラスの女の子たちを連れて行って、安全に上まで登らせてあげることが男の子の自慢だったりしたものです。(もちろん立入禁止のところなのではっきり言って危険です) 今思えば、冒険心を十分満たされる少年時代だったとつくづく思います。その「幽霊塔」も今はありません。
小学校4年か5年のころ、この造兵廠跡地で大規模な中国展がありました。家族連れで行きました。造兵廠跡地に初めて「公式に」入ったことに緊張しました。しゃんはい、って聞いたことあったけど漢字では上海って書くのか……と、上海製の文具の小物などを手に取りながら隣国を初めて身近に感じたのを覚えています。
この地が原爆投下の目標でもあったことを後に知って、もしナガサキの日に小倉が晴れていたら、と考えました。造兵廠で学徒動員で働いていた父はまず、助かっていないでしょうし、そうであれば私もいない。私の命に連なる私の子どもたちもいない。自分の命と歴史の接点に身が震えます。今、造兵廠跡地である勝山公園の一角にナガサキの原爆犠牲者を弔う碑が建っています。帰省のたびに我が子といつも手を合わせます。(イマジンさん)

子供の頃の秘密基地的なこの「陸軍の小倉造兵廠」でよく遊んだことを思い出します。今にして思えば怖い話ですが、銃弾の薬莢等を拾いに行ったものでした。(発見したことはないのですが…)
因みに、私の母は、女高生動員で風船爆弾の紙張りをしていたそうで、「うちは、貼るのが上手やったんよ!」といつも自慢していたのが思い出されました。
わが母は、子供の頃、流行ったひごで作るプロベラ紙飛行機を作らせたら、素早く上手に作り、親父の作った飛行機より必ず遠くに飛んだものでした。(pu_sanさん)

父は、熊本県の出身で現在82歳ですが、戦争当時、幹部候補生として小倉の防空隊にいたという話を一度、聞いたことがあり、電話で当時の様子を聞いてみました。以下は父の話をまとめたものです。小倉は原爆の第一投下目的地だったそうですが、それを思うと原爆の難を逃れた父がいて、私が今おり、アメリカ人と結婚して現在アメリカに暮らししているということが、とても不思議に思えます。
◇大爆撃
小倉の西に“三角山”という山が二つ並んでいました。その二つの山の間から、第1回目の敵機の来襲があり、散々にやられてしまった私たちは、第2回目の敵機来襲に備えて、機関砲などで山の間に狙いを定めていたために、ほぼ全機を打ち落とすことができました。それに懲りたアメリカは、第3回目の空襲では、高高度から現れ、小倉の市内を大爆撃しました。私たち防空隊がいる山の上から市内が真っ赤に燃えるさまがよく見え、夜になると亡くなった人たちを火葬する匂いが山の上までただよってきました。
◇風船爆弾
当時、小倉造兵廠では風船爆弾が製造されていたということですが、私の叔父は某製糸工場で風船爆弾に使用された和紙の開発に携わっていました。和紙の強度を増すため、こんにゃく糊を紙にしみこませていたそうです。それを千葉のあたりから、高高度で偏西風に乗せてアメリカに向けて飛ばしのだそうです。アメリカにたどり着いた爆弾は、あちこちで山火事を発生させたということです。
◇終戦
終戦数日前、私たちは大分陣地に敵が上陸するという情報を元に、3日3晩、寝ずに警戒をしていました。私は抜刀隊に志願し決死の覚悟を決めていたのですが、数日して皆が集められ、天皇の御詔勅があったこと知らされました。私はその時何よりもまず、「あー、これでまた生きておふくろに会える」と思いました。
終戦数日後のこと、非常に低空で再び爆撃機B−17が現れました。当時、複数名で入る防空壕は、爆撃された時に犠牲者が多くなるので、私たちは、たこ壺という1人だけ入れる穴をあちこちに掘っていました。そのたこ壺に皆が一斉に避難しようとしていました。
空を見上げると、正に爆撃機は弾倉を開いているところでした。これでおしまいかと思ったのですが、爆撃機からは、赤や黄、青の色とりどりの落下傘が落ちてきたのです。木にひっかかっていた落下傘の一つに付いていた壊れた箱から、たくさんのお菓子やら、タバコやら、缶詰が散乱していました。私たちがいた場所を捕虜収容所と間違った爆撃機がアメリカ人捕虜のための物資を落としたのです。その時、初めてラッキーストライク、キャメルといった銘柄のタバコを吸ったのですが、そのおいしさは今でも忘れられません。(沈丁花さん)
