道場の日々〈17〉6歳趙 20歳林と対局
木谷一門百段突破祝賀会で林海峰(左)と対局する趙治勲(日本棋院提供)
1962年(昭和37年)8月2日。東京・大手町のサンケイホールには、晴れ晴れとした木谷一門の姿があった。24年(大正13年)、師の木谷實がプロ初段となって以来、自分や弟子たちの段位の合計が百段を超え、それを記念した催しが開かれたのである。
その後、加藤正夫ら修業中の弟子たちが次々と入段や昇段をし、一門の合計段位は五百段を突破することになるが、戦中戦後の苦難を乗り越え、弟子の育成に励んできた木谷と妻の美春にとって、喜びひとしおのものがあった。
注目を集めたのは、開会のセレモニーに引き続いて行われたアトラクションだった。木谷道場に入門するため韓国から来た趙治勲少年と、台湾から囲碁留学して日本棋院棋士となった林海峰の対局が行われたのである。
趙は、前々月に6歳になったばかりだった。4歳で碁を覚え、わずか1年余りでアマチュア高段者並みになったという天才少年だった。胸を貸す林は20歳。木谷の弟子大竹英雄と「竹林(ちくりん)」の名で呼ばれた新進気鋭の棋士で、このとき六段、碁界の将来を担うホープだった。3年後には、当時の第一人者、坂田栄男から名人のタイトルを奪い、一躍トップ棋士となる。
大柄な林に対し、趙は腰を上げないと、碁盤の奥の方に石が置けないほど小さい。好対照の対局風景だった。しかも、趙は打つ前に腕を組んで盤面をにらんだ。これは、兄の祥衍が「一度、腕を組み、一呼吸置いてから打て」と指示したからだが、観客席からは林に対し立派に対峙(たいじ)しているように見えた。趙がもらったハンデの置き石は五つ。林に対してどんな戦いを挑むか。会場の人々は固唾(かたず)をのんだ。
実は、その10年前。林も同じような場面に立たされていた。
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林は、日中戦争中の42年(昭和17年)、中国・上海に生まれた。9人兄弟の末っ子で、父の國珪は東京帝国大学に留学し、日本統治下の台湾で副総領事を務めた、国民党政府の官僚だった。戦後、中国では蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍の内戦が始まり、国民党のグループは敗れて台湾に渡るが、このとき、林の一家も、行動を共にした。
父は無類の囲碁好きだった。その父が友人たちと打つのを見て、林はいつの間にかルールを覚えたという。負けず嫌いの彼は、メキメキと上達し、9歳のときに台湾少年囲碁大会で優勝、天才少年として注目される。
運命が決まったのは52年(昭和27年)、10歳の時だった。
木谷のライバルで、日本の囲碁界に揺るぎない地位を築いていた呉清源が台湾に凱旋(がいせん)帰国、首都・台北の公会堂で歓迎の集いが開かれた際、呉に指導碁を打ってもらう機会に恵まれたのである。
それは千人余りの大観衆が見守る中で公開対局だった。林はすっかり緊張してコチコチになる。ハンデの置き石を六つ置き、必死に戦ったが、惜しくも1目負けを喫してしまう。しかし呉がその才能を評価したため、周囲で日本への留学話がどんどん進んでいった。
趙はしかし、同じ大舞台で、林に勝ってしまった。しかも、中押し勝ちであった。中押しとは、最後まで打たずに、途中で勝負がつくことである。
勝てたことについて、趙は「野球に例えて言えば、林先生がストレートだけ投げてくれたから、打てたようなものなんです。フォークボールやスライダーが来たら、こうはいかなかった」と述懐するが、後に彼自身が「プロの評価に堪える5子局」と振り返るほど、素晴らしい内容だった。
もっとも、林が手を緩めたわけではない。プロとしてのプライドを持って、精いっぱい、堂々と打った。そのときのことを思い出しながら、林は「10歳当時の私より6歳の彼の方が強いような感じでした。手どころで光るものがありました。同じ年ごろの子で、あんなに強い子は、今でもいないんじゃないかな」と話す。
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趙は、小中高一貫教育の東京韓国学院に通いながら、木谷道場での生活が始まる。学校について、木谷の妻美春は「これから日本で生活していくのだから、近くの小学校に通わせてはどうか」とアドバイスしたが、兄の祥衍は韓国学院を選択した。
祥衍は、その理由を「韓国人であることを意識させたかったんです。それは愛国心を養うためではありません。はるばる海を越えて日本に来たんだから、強くならなければ、どうしようもないんだ、と治勲に思ってもらいたかったからなんです」と語る。
祥衍は、治勲を日本に呼び寄せたとき、「弟に名人のタイトルを取らせるという目標を立てていた」と言う。それまでは「絶対、韓国に帰らないし、結婚もしないと心に誓っていた」と話す。
入門後の治勲は、その目標を目指して、囲碁一筋に打ち込むことになるが、強い兄弟子たちの中での修業の厳しさは、半端ではなかった。林にはハンデの置き石を5個置いて勝ったが、道場では加藤に打ち込まれ、ハンデは一時、それ以上に増えた。
「加藤さんは容赦しなかった。あれは、芸道におけるシゴキでした。でも、今思うと、あれは感謝のシゴキでした」
治勲は、そう振り返る。その後、日本での生活について、多くの人から「言葉も通じない所へ来て大変だったでしょう」と聞かれたが、彼自身は「親離れしたときの苦労など記憶にない。道場では、同じ道を目指す仲間たちがいつも一緒にいたから、たいした苦労はなかった」と話す。
彼は11歳で入段、来日から18年後の80年、24歳のとき、悲願だった名人のタイトルを取り、祖国の土を踏む。彼の凱旋によって、韓国では囲碁ブームが起きた。
囲碁豆知識
■「爛柯」=中国・晋の伝説に由来
爛(らん)は「くさる」という意味、柯(か)はオノの柄のことだ。囲碁の別名で、中国・晋の時代の伝説に由来している。山中で、童子たちが碁を打っていた。そこへ、木こりが通りかかり、観戦していたが、見ているうちに時のたつのを忘れ、気がつくと、持っていたオノの柄が腐り、驚いて家に帰ると、家人は皆、亡くなっていたという。碁はそれほど面白いということである。
囲碁の別称は相当数あるが、忘憂、坐隠、手談も有名だ。忘憂はそのままズバリ「憂いを忘れる」、坐隠は「いながらにして俗世間から逃れる」、手談は「手で会話する」。つまり、「言葉の異なる外国人同士でも、碁を打てば、意思が通じる」という意味である。(水口藤雄=囲碁史家)