針尾無線塔 戦史見つめた証人
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」
1941年(昭和16年)12月2日、連合艦隊司令長官・山本五十六が発した真珠湾攻撃の指令は、国内各地の中継所を経て各部隊に伝えられた。長崎県佐世保市に残る旧針尾送信所もその一つ。アジアから太平洋へと戦線を拡大し、やがて敗戦を迎えた日本の戦史を見つめ続けた“生き証人”だ。
同市街地から長崎市方面に車を走らせ、西海橋近くまで進むと西側に3本の大きな塔が目に飛び込んできた。温州ミカンが色づいた小高い山で天に向かって屹立(きつりつ)している。戦前、戦後を通じて果たした役割を知る人も少なくなり、コンクリートで固められた無機質な姿をさらしている。
3本の無線塔は、旧海軍が18年(大正7年)から22年(大正11年)にかけて建設した。鉄筋コンクリート製で、高さ135メートル、根元部分の直径約12メートル、総工費155万円。今だと約250億円に達するまさに国家的事業だった。
戦後は海上保安庁が送信所の一部施設を使っていたが、97年にその役割も終えた。巨大施設ゆえに解体費用は多額になり、10年以上過ぎた今も保存か解体か決まっていない。そこで動き出したのが、2005年に発足した「針尾無線塔を保存する会」(約250人)。約1万人の署名を集め、歴史遺産としての活用を目指し、佐世保市などに働きかけている。
真珠湾攻撃という歴史の1ページに関与したことや、戦地から引き揚げてきた人たちが塔を目にして「帰ってきた」と涙したことを知る会長の梯(かけはし)正和さん(73)は「無線塔が果たした歴史的役割を多くの人に伝え、平和の大切さを学ぶ場になればうれしいのですが……」と願っている。
写真・文 秋月正樹
(2009年11月25日 読売新聞)